( 成リン、ニードルシステムについて大いに語る。)
( JFT全日本ハエトーナメント表彰式 )
(ハエ釣りとの出会い。)
私がハエ釣りと出会ったのは小学4年の時でした。 従兄弟に釣りキチがいて、ハエ(やまべ)釣りに誘われたのがきっかけでした。
休日は2人でハエ釣り競争です。最初は負けっぱなしで、悔しくて何とか勝とうとエサのつけ方や仕掛けを子供ながらに研究した事を覚えています。
また、ある日沢山ハエが釣れたので父に自慢しようと自宅に持ち帰ったら「食べもしない魚殺すんじゃない、釣った魚は生かしたまま川に放してやれ。」と怒られた事を昨日の事のように覚えています。
その後、中学・高校時代はもっぱら渓魚(イワナ・ヤマメ)に没頭していました。
そして大学時代は釣りから遠ざかっていましたが、東京に出て来て社会人になってから再び釣りを始めました。でもこの頃は海・川・湖といろんなジャンルの釣りをしていました。
28歳の時、久し振りに多摩川の支流・浅川へハエ釣りに出かけました。
その日は水況が良かったせいか、夕方迄に一束ちかく釣れました。とても楽しくて子供の頃を思い出してしまいました。それから何回か続けて近くの多摩川(是政)へハエ釣りに通いました。
(競技者の道を歩み始めた。)
そこで多くのハエ釣り競技者と巡り合う事になったのです。
出会った諸先輩のアドバイスを参考に競技用の道具をいろいろ買い揃えました。
特に津山籠を購入した時は嬉しくて早速川へ出かけました。津山籠を身に着けているだけで名人になった気分でした。(笑)
当時津山籠はハエ釣り師のステータスシンボルの様な物でした。
多摩川(是政)へ通って1年もしないうちにどんどん仲間が増えていった。その中の一人が、当時、誰もが認める関東NO.1の実力者・橋本春雄名人でした。
橋本さんからはハエ釣りの技術的な事はもちろん、釣りに対する姿勢、勝負を挑む時の心構えなどなど数多くの事を学ばせて頂きました。
( ハエ釣り中毒患者になってしまった。)
30歳を過ぎたころには3つのハエ釣りクラブに所属し、休日はほとんどハエ釣り、
この頃から完全にハエ釣り中毒患者になりました。家庭を顧みず妻には迷惑のかけっぱなしでした。
ハエ釣り競技を始めて3年目には所属会の競技会・大会で優勝するようになり、夢は全国大会へと膨らみました。そして各クラブの競技会、地区大会、全国大会と大会漬けの日々をおくるようになりました。
全国大会では、日本各地のハエ釣り名手の凄技を目のあたりにしました。今まで全く見たこともない釣法や技術、驚きと同時に多くの事を学び、ますますハエ釣りにのめり込んで行きました。
その後、数々の大会で好成績をあげて、釣り雑誌や新聞のコラムで取り上げられるようになりました。 「関東の若手ホープ」などと掲載されました。
この頃、写真が雑誌や新聞に載っているせいか、川で釣り人に会うと「あ、成田名人じゃないですか。」などとよく声をかけられた。また招待選手としてあちらこちらに招かれるようになり、東海・関西などにも出向いた。
周りからチヤホヤされて名手気取りになってしまいました。
いま思えば天狗になってしまい自分自身を完全に見失っていました。
(天狗の鼻が折れてスランプがやって来た。)
しかしその後目立った成績を残せなくなった。
特に大きな大会では予選落ちが続き全く勝てなくなりました。
にわか名手のメッキが剥げてしまった感じで落ち込むばかりでした。
休みの日はほとんどハエ釣りだったのに釣りに行かない日が多くなりました。たまにハエ釣りに行っても、ただ何となく釣っている感じで完全に釣りに行き詰まっていました。
行き詰りの理由の一つは、長い間150尾/hのまま止まってしまっていたからです。(当時エサは手で付けていた。)「これが限界なのかなぁ‥‥‥。」
それからしばらく、何か先が見えないもんもんとした日々を過ごしておりました。
(ニードルシステムとの出会い)
ある日の事、雑誌(月間つり人)を見ているとニードルシステムなる物が載っていた。
それはマグネットに吸い寄せられる釣針をガイド(ニードル)に掛け、そのままスライドさせるだけでエサが付く。という物だった。四国・徳島の名手、片山悦二さんが考案し作った物らしい。
最初はピンと来なかったが二度読みしたら興味が出てきた。
「よし、一度作ってみよう。」早速東急ハンズで部品と道具をそろえ作ってみた。
しかしまともにエサが付かない。
それから何日も試行錯誤を繰り返し何とかエサが付くようになった。
早速川へ出かけて実験。全然駄目だった。
自宅でやるとエサが付くのにフィールド(川)では半分も付きません。何故なんだろう? どうも針を引く角度の違いが影響するらしい。
「はたしてこのニードルシステムは実戦で使えるのだろうか?」
半信半疑な気持ちは増幅されるばかりだった。
されど今のスランプを打破するには「ニードルシステムしかない。」と自分自身に言い聞かせて、
ニードルマシーンを最初から作り直した。
マグネットとガイドの位置関係、エサの出口とガイドとの接点の微調整を何度も何度も嫌になる程繰り返した。
2週間ぐらいかけてようやく9割ぐらい納得できる物が完成した。
次の休日、魚影の濃かった相模川へ出かけた。(旧鮎見橋近くの分流)
(ニードルマシーンの威力を知った。)
そこで想像もつかない結果が出た。1時間×2回、2回とも170尾/hオーバー。2回とも、と言うところに大きな意味がありました。この日は増水後の好条件とはいえ、手付では150尾/hを越えられなくて
長い間悩んでいたのに、あっけなく170尾/hオーバー。
ニードルシステムの威力をまざまざと知りました。
私は興奮状態で早速橋本春雄名人に電話を入れたことを覚えています。
この日は自宅に帰ってからも興奮状態でなかなか寝付けませんでした。
ようやく真っ暗なトンネルの中で一点の光が見えたような感じでした。
その日使用したニードルマシーンはまだまだ改良の余地があったので、精度を上げていけば200尾/hは必ず出せる。と確信しました。
(ニードルシステム時代到来)
そしてその頃、私だけではなく多くの仲間がニードルマシーンを作り始めておりました。
当時、各クラブの例会は自作したニードルマシーンの見せ合いっこでした。
アーダ、コーダと尽きぬ討議、あの時のみんなの真剣な眼差しは今でもはっきり目に焼き付いています。
その後いろんな個性豊かなニードルマシーンが登場。また、かなり精度の高いマシーンを作る人も現れた。
この頃はハエ釣り競争ではなくニードルシステムの開発競争でした。
そしてまもなく精密機器を作っている専門の人が高精度の二―ドルマシーンを開発しました。
また、某メーカーからも発売された。そしておかゆポンプも常に等量のエサが出る物が開発されました。
その頃から徐々に各個人の作ったニードルマシーンは姿を消していきました。
現在は練馬区にある松尾製作所製造のニードルマシーンを使用している人が大半です。
(ニードルシステムは新幹線時代〈250尾オーバー/h〉をもたらした。)
その後、私はニードルマシーンの改良を進め、170尾/h越えから事なく約1年で200尾/hまで
たどり着いた。
ところが、たどり着いて間もなくの頃、とんでもない情報がもたらされた。
主藤秀雄名人(現在は鮎釣りの名人)が 愛知・豊川で227尾/hを出したと言うのです。
この情報はあっという間に関東の競技者達に伝わり我々の目標になりました。
ところがこの目標は思ったより重かった。
私はその後もニードルマシーンの改良や基礎練習を繰り返し225尾/h迄いきました。
227尾/hまで、あとたったの2尾、もう時間の問題だと考えておりました。
しかし、そのたった2尾を追加するのに、なんと6年以上もかかってしまったのです。
途中で心が折れそうになりました。
その後は240尾/h越え、250尾/h越え、260尾/h越え、270尾/h越えと、それ迄が嘘のようにトントン拍子でした。
そしてハエ釣りも新幹線時代(250尾オーバー/h)に突入していったのです。
そして私は地区の大会三連覇・全国大会優勝と絶好調でした。また、1日の釣果で2,000匹 越えも達成する事が出来ました。
ニードルシステムは釣果を飛躍的に伸ばしました。
現在、ハエ釣り競技者にとってニードルシステムは、なくてはならないアイテムです。
(ニードルシステムの利点)
私は現在の高釣果時代をもたらした最大の要因はニードルシステムだと考えております。
たしかに竿の短竿化やメタルライン(金属糸)の出現などいろいろ要因はあります。
でも、やはり一番の要因はニードルシステムだと思っております。
このシステムのメリットは魚を外してからエサ付けまでの時間短縮や超小針が使える点です。
現在の競技会では小バエ(小さなやまべ)を釣り込めるかどうかで勝敗が左右する事も多く、超小針が主流 になっています。
手付の時代は針を指先でつまむ作業があり、やや大きめの針か軸の長めの針が主流でした。
超小針は持ちづらいうえ、ネリエサが指先に付いてしまい使えませんでした。
また、極寒の釣りでは寒さで指先が麻痺して針をつかめない事も多々有りました。
このシステムによりそんな心配は一切無く、一連の動作の時間短縮や、超小針も自由に使えて釣果は格段 にアップしたのです。
ニードルシステムの恩恵は計り知れません。
(諸先輩への感謝)
私は今でも、ニードルシステムを考案された片山悦二名人がお住まいになっておられる四国・徳島県の方角に足を向けて寝ません。「ほんまかいな。」(笑)
それはオーバーとしても、片山名人に対して尊敬と感謝の気持ちは一生忘れません。
ここでもう一人忘れてはならない人物がおります。
それは現在釣り人社社長・鈴木康友さんです。当時鈴木社長は編集長でした。
鈴木さんはこのニードルシステムと言う片山さんのアイデアを、いち早く月間つり人に掲載し全国に紹介したのです。しかも詳しい解説と写真付きでした。
これで一気に全国のハエ釣り競技者にこのシステムが拡がったのです。私もその一人です。
もし鈴木さんが月間つり人で採り上げてなかったら、片山さんの周りの人達で終わっていたか、あるいは全国に拡がったとしても相当の年数を要したと思います。
その意味で鈴木康友つり人社社長の功績も忘れてはなりません。
(未来のハエ釣りに想いをよせて)
ハエ釣りも100尾/hの時代から、35年間で新幹線時代(250尾~300尾/h)迄たどり着きました。
これから10年、いや数十年後かもしれません、次世代のハエ釣り競技者達が
今は全く想像もつかない様なシステムやタックルで、夢のリニア時代(500尾/h)をきっと切り開いてくれると私は信じています。いや、リニア時代は必ず来ます。
まぁ~、もっともその頃は、私は三途の川でのんびり糸を垂れているとおもいますが‥‥‥。(笑)